いまやシティ・ポップのミュージシャンとして不動の人気を築いた山下達郎・竹内まりや夫妻と大瀧詠一。
今回はそんな彼らを売り出す戦略を立てた3人の重要人物の話をします。
この3人がいなければ、シティ・ポップの歴史は違っていたはずです。
シティ・ポップを世に送り出した3人の人物
今回の主役は、シティ・ポップを世に送り出した3人の人物です。
- 牧村憲一
- 川原伸司
- 横澤彪
3人ともプロデューサーであることが共通しています。
牧村憲一と川原伸司は音楽プロデューサー、横澤彪はテレビ番組のプロデューサーです。
この3人がシティ・ポップにどんな影響をもたらしたのでしょうか。
竹内まりやをスカウトした牧村憲一
牧村憲一は、歌手になるつもりがなかった竹内まりやをスカウト、説得してデビューさせました。
竹内まりやは通訳の仕事をしようとしていたので、この人がいなければ歌手・竹内まりやは存在しなかったのです。
大瀧詠一・松本隆のコンビを復活させた川原伸司
川原伸司は、70年代に売れないマニアックなミュージシャンだった大瀧詠一を叱咤激励し、若者向けリゾートミュージックを作るよう提案しました。
そうしてできたのが名盤「ロンバケ」です。
そのとき、大瀧詠一に松本隆と再びコンビを組むよう提案したのも川原伸司。
川原伸司がいなければ、ロンバケはおろか、松田聖子の「風立ちぬ」や森進一の「冬のリビエラ」といったヒット作も生まれなかったでしょう。
シティ・ポップを毎週土曜日の夜に流した横澤彪
横澤彪はフジテレビのプロデューサーで、EPOやユーミン、山下達郎を自身の手がけた人気番組のテーマ曲にしました。
要するにシティ・ポップを大衆の耳にすり込み、山下達郎やユーミンの知名度を押し上げた人です。
マイナーなジャンルだったシティ・ポップをメジャーに
牧村憲一、川原伸司、横澤彪。3人の共通点は、「マイナーなジャンル」だったシティ・ポップをメジャーなフィールドに持ち込んだこと。
それでは彼らの功績を詳しく見ていきましょう。
大瀧詠一を売り込んだ川原伸司
川原伸司はビクターのA&R(ミュージシャンの育成・宣伝をする役職)で、大瀧詠一のマネージャーに近い位置にいた人。
「平井夏美」の名前で作曲家としても活動し、次のような名曲を作っています。
- 井上陽水「少年時代」「Tokyo」
- 松田聖子「瑠璃色の地球」
- 川島なお美「泣きながらDancin'」
- 田村英里子「リトル・ダーリン」
- 鈴木蘭々「... of you」
ビートルズに詳しく、同バンドのアメリカ盤レコードのA&Rだったキャピトル・レーベルのデイヴ・デクスター・ジュニアを研究するなど、かなりマニアックな視点を大瀧詠一と共有していたそうです。
大瀧詠一とは親しい間柄だったものの、川原伸司は大瀧作品が売れていないことを気にかけていました。
1978年、大瀧詠一はアルバム「LET'S ONDO AGAIN」の売り上げが伸びず、おりからコロムビアとの契約も終了して岐路に立たされます。
「ここらでヒットを!」と関係者の誰もが望むなか、川原伸司は女性に受ける曲を作るよう大瀧詠一を説き伏せました。
そうして生まれたのが、大瀧詠一の代表作で「ロンバケ」として親しまれている名盤「A LONG VACATION」。
つまり「ロンバケ」は川原伸司がいなければ生まれなかった作品なのです。
川原伸司が分析した大瀧詠一の問題点はおおよそ次の3つ。
- 歌詞に色気がない
- 元ネタがマニアックすぎる
- そもそもやる気がない
大瀧詠一の歌詞に色気がない
大瀧詠一の書く歌詞は女性に受けない。川原伸司はそんな問題に気づきました。
まずはその点をどうにかしないといけない。
たとえば、1976年発表の「GO! GO! NIAGARA」に収録された曲の歌詞はこんな調子です。
私しゃ富士の押し売り男 エー、エー、毒消しゃいらんかね (趣味趣味音楽)
まずは右足 チョイト前出し その足 沈む前に すぐ左足 ヒョイト前出し その足 沈む前に またも右足 チョイト前出しゃ あらまた 不思議にも 出来るよ 滝渡り (こいの滝渡り)
浪曲みたいな歌詞で、色気ゼロです。
大瀧詠一の元ネタがマニアックすぎる
さらに川原伸司は、大瀧詠一の曲や作品の構想自体も問題視します。
「Let's Ondo Again」は、チャビー・チェッカーの「Let's Twist Again」の音頭カバーとして作られました。
ところが「Let's Twist Again」は日本でヒットしていないため、そもそも元ネタの認知度が低かったのです。
「誰でも知っている曲を音頭にしなきゃ」と思った川原伸司は大瀧詠一にダメ出しします。
「パロディの元が有名じゃないから面白くないよ」と。
すると、あまりにも大瀧詠一らしい一言を返ってきました。
「そこがまたいいんだよ」
(川原伸司著「ジョージ・マーティンになりたくて〜プロデューサー川原伸司、素顔の仕事録〜」)
大瀧詠一にそもそもやる気がない
いちばんの問題は大瀧詠一にいまひとつやる気がないこと。
大瀧詠一はとかく趣味に没頭しがちな人です。
野球、映画、企業の社史の研究など様々な趣味にのめり込むと、音楽の製作が止まります。
「大瀧・松本コンビ」の復活を提案
川原伸司は、これら3つの問題を解決するには再び松本隆とタッグを組むしかないと考えました。
「A LONG VACATION」制作時に、「はっぴいえんど」解散以来の「作曲:大瀧・作詞:松本」コンビの復活を持ちかけます。
大瀧詠一は「縁」を大切にする人。
それだけに、同じバンドのメンバーだった松本隆とまた一緒に曲を作るという川原伸司の提案はみごとにハマりました。
がぜんやる気になった大瀧詠一は、「よし来週、松本のところに行って頼んでくる」とみずから話をしに出向く。
ジャケットは1979年に大瀧詠一が文を添えたイラストブックを発表していた永井博を起用すると決まったので、松本隆がジャケットからイメージした歌詞を書けば、リゾートミュージックの世界観は出来上がると川原伸司は見込んでいました。
- 従来の大瀧詠一ファンにとっては「はっぴいえんど」の「大瀧・松本」コンビの復活として売る
- それ以外の人にとってはリゾート・ミュージックとして売る
川原伸司の念頭にはそうした戦略があったのです。
ロンバケのプロモーションに奔走
ところが「ロンバケ」は発売当初は思ったほど売れ行きが芳しくありませんでした。
そこで川原伸司はプロモーションに打ち込みます。
プロモカセットを作って大学生に配ったり、「ポパイ」に若者のリゾートに聴くべき音楽として広める宣伝文を書いたり。
そんな地道な活動のせいか、「ロンバケ」は発売から数ヶ月を経て、1981年の夏頃にはヒット作となったのです。
1年後の1982年にはCD化され、オリコンチャート初のミリオンセラーを記録します。
NIAGARA TRIANGLE Vol.2で杉真理を大瀧詠一に推薦
その一年後、大瀧詠一はナイアガラ・トライアングルの第2弾を企画します。
佐野元春を呼ぶことは決まっていたものの、もう一人は未定でした。
「もう一人は川原だ」
大瀧詠一は冗談めかして川原伸司に言ったそうです。
川原伸司は、月2回ビートルズ研究会を自宅で開いていました。
そのメンバーは竹内まりやと杉真理。
その縁で、弟子のような存在だった杉真理を大瀧詠一に紹介します。
この点でも、川原伸司がいなければ「NIAGARA TRIANGLE Vol.2」は企画倒れになった可能性があるといえるでしょう。
「イエローサブマリン音頭」を構想
「NIAGARA TRIANGLE Vol.2」の完成後に、川原伸司は「イエローサブマリン音頭」を構想します。
川原伸司は山田邦子に歌わせたら面白そうだと考えましたが、大瀧詠一は「コミックソングにしたくない」と拒否。川原伸司にこう言う。
「これは洋楽邦楽を超えた一大企画だ」
「俺は命を懸ける」
「イエローサブマリン音頭」も川原伸司がいなければ実現しなかったわけですね。
作曲家・平井夏美デビューのきっかけは大瀧詠一
また、川原伸司にとっても大瀧詠一は重要な存在です。
川原伸司を「平井夏美」として作家デビューさせたのは大瀧詠一その人でした。
大瀧詠一が松田聖子の「風立ちぬ」を作ったとき、「B面の曲を書け」といわれたことが作曲家・平井夏美誕生のきっかけ。
そのとき書いたのが「Romance」です。
竹内まりやを見出した牧村憲一
牧村憲一は70年代にはっぴいえんど系列の音楽を「都市型ポップス」として評価、シュガー・ベイブ、センチメンタル・シティ・ロマンスのマネージメントと宣伝を担当しました。
1974年には所属していたCM制作会社「ON・アソシエイツ」で大瀧詠一や山下達郎にCMの仕事を依頼。
大瀧詠一の「サイダー'74」、山下達郎の「不二家ハートチョコレート」といった両者のファンにとっては有名なCMソングの制作に携わります。
1976年3月、立ち上げた音楽事務所「アワ・ハウス」で、シュガー・ベイブ解散後の山下達郎・大貫妙子のソロ作品をバックアップ。
80年代以降は、ピチカート・ファイヴ、フリッパーズ・ギターら「渋谷系」の輩出に携わりました。
いうなれば、「シティ・ポップ」や「渋谷系」を盛り上げた陰の立役者です。
そんな牧村憲一のもっとも偉大な功績といえば、竹内まりやをスカウト、歌手デビューさせたことでしょう。
ロフト・レーベルで「ロフトセッションズ」を企画
1977年、前年10月にオープンした新宿ロフトのオーナー・平野悠(トライセラトップス・和田唱の親戚)から声がかかり、発足させた「ロフト・レーベル」のレーベル運営者として牧村憲一は引き抜かれます。
当時の「ロフト」のイメージは「汗と涙と男」。牧村憲一はそのイメージを覆そうと、新人女性シンガーをデビューさせる企画盤「ロフトセッションズ」を構想しました。
企画の実現には数人の女性歌手が必要でしたが、メンバーが一人足りません。
そこで牧村憲一は、ビクターのA&R担当だった川原伸司に「誰かいませんか?」と声をかける。
川原伸司は、「杉真理のバンドでコーラスをやっている子」として竹内まりやの歌うカセットテープを持ってきました。
そこに収められていたのは学園祭での演奏。そのなかでJDサウザーのカバーをワンコーラスだけ歌う女性の声に、牧村憲一は感銘を受けます。
「ずっと探していた理想の歌声だ!」と。
牧村憲一は後年、次のように語っています。
シティー・ミュージック系の人脈には本当に優れた作家やプレーヤー・アレンジャーがいるのに、活躍の場がほとんどなかった。
(中略)
決定的に欠けていたのが、彼らの才能をきちっと表現でき、しかも音楽性も備えたシンガーで。まりやの声と歌は、まさにそれにぴったりだった。
東京人 2021年4月号
竹内まりやをどうしてもプロデビューさせたい
1978年に発売された「ロフトセッションズ」で、竹内まりやはセンチメンタル・シティ・ロマンスをバックに2曲歌いました。
「ロフトセッションズ」後、牧村憲一は「竹内まりやをどうしてもプロデビューさせたい」と考えます。
「ロフトセッションズ」はアマチュアでも参加できる企画。
竹内まりやとしも、この時点でプロデビューする気はありません。
「ロフトセッションズ」の販売元はビクターレコードだったので、牧村憲一はビクターに竹内まりやをデビューさせたいと連絡をする。
ちょうどそのころ、竹内まりやはビクターの宣伝部で宛名書きのアルバイトをしていました。ビクター側は「ただの宛名書きの女の子だろ?」と疑問を持ち、取り合ってくれません。
ところが、「カレン・カーペンターみたいな声を持つシンガー」を探していた「RVC(RCA)」のディレクター・宮田茂樹に声をかけると、「会わせてほしい」と話が進みました。
語学の道に進もうとした竹内まりやを説得
ただ、肝心の竹内まりや自身は歌手になるつもりはありません。
竹内まりやはアメリカ・イリノイ州に留学経験のあり、語学に自信があったことから、通訳などの仕事がしたいと考えていたのです。
牧村憲一は青山三丁目の喫茶店に竹内まりやを呼び、プロデビューの話を持ちかけました。
竹内まりやはなかなか首を縦に振らない。
そこへ偶然通りかかった大貫妙子が店に入ってきます。
牧村憲一が事情を話すと、大貫妙子は「やめたほうがいい」と竹内まりやを諭します。
「レコードなんか作ってもいいことなんかない」と。
結局、その日は話がまとまらずに終わります。
竹内まりやの「曲を書いてもらいたい作家リスト」
後日、竹内まりやは牧村憲一に条件を提示しました。
竹内まりやは「曲を書いてもらいたい作家リスト」をまとめていたのです。
リストには次の人たちの名前がありました。
- 山下達郎
- 杉真理
- 細野晴臣
- 加藤和彦
さらに演奏は、「ロフトセッションズ」で共演したセンチメンタル・シティ・ロマンスが指定されていました。
牧村憲一はそれを見せられたとき、「厳しい条件だ」と困ったような顔をしつつ、内心ほくそ笑んだそうです。
というのは、牧村憲一にはリストに書かれた人たちとすでにつながりがあり、もともと彼らの楽曲を歌ってもらいたいとの思惑もあったからです。
なぜ竹内まりやが心変わりしたのかはわかりません。
大貫妙子に「やめておけ」と言われて、かえって火が付いたのかもしれません。
「西海岸ブーム」を追い風に「ポパイ」でプロモーション
ともあれ、竹内まりやはビクターと同じ原宿ピアザビルにあったRVC(RCA)と契約することになりました。
牧村憲一は、デビュー後の竹内まりやを芸能界とは関係のないところで売り出したいと考えます。
そこでイメージ戦略を練り、雑誌「ポパイ」でプロモーションすることにしたのです。
1970年代後半、「ポパイ」は西海岸的なライフスタイルやファッションを紹介し、若者から絶大な支持を得ていました。
こうした「西海岸ブーム」の中心となる雑誌から竹内まりやを世に送り出そうと牧村憲一は目論む。
一九七六年に創刊した『ポパイ』は、最盛期は公称六〇万部以上の発行部数を誇ったライフスタイルマガジンです。男性誌ながらも「ノンセックス」「大人にならない」というコンセプトで「ポパイ文化」と呼ばれる若者文化を牽引し、西海岸ブームを人工的に作り出すことに成功していました。
竹内まりやさんの音楽を聴く人はどういう人か考えていたとき、この『ポパイ』が頭に浮かびました。アメリカの高校に留学経験があり、志向する音楽性からいってもぴったりだと思えました。
振り返ってみれば『ポパイ』に限らず、その頃のマガジンハウスの雑誌のコンセプトの作り方は、僕が進めてきた音楽、その頃、フォークソング系のニューミュージックとは別にシティミュージックやシティポップスと言われ始めた音楽のコンセプトと非常に重なり合うところがありました
牧村憲一著「ヒットソング」の作りかた 大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち
それから竹内まりやはジワジワと人気を集め、資生堂のキャンペーンソング「不思議なピーチパイ」がヒットし、一躍人気歌手になりました。
さらに山下達郎との結婚後、竹内まりやはシンガー・ソングライターとして開花。1984年の「VARIETY」以降の全オリジナルアルバムが、オリコン週間アルバムランキングで1位を取り続けています。
竹内まりやのデビュー、山下達郎との出会い、売り上げ。それらすべてに牧村憲一がかかわっています。
ビクターの川原伸司は、デビュー前から竹内まりやを知っていたものの、デビューする気はない竹内まりやを強引にデビューさせるつもりはありませんでした。
牧村憲一以外に、竹内まりやを説得して歌手デビューさせようとした人はいなかったはず。
歌手の道を選ばなかった竹内まりやは、きっと語学の道を選んでいたでしょう。
そうなると「プラスティック・ラブ」は存在せず、現在のシティポップブームも違った形になっていたかもしれません。
いま竹内まりやの音楽が聴けるのは、牧村憲一のおかげなのです。
シティ・ポップを「土曜の夜」のイメージに結び付けた横澤彪
横澤彪は、タモリ、ビートたけし、明石家さんまの「お笑いビッグ3」を世に送り出したフジテレビのプロデューサー。
フジテレビが1980年代初頭に打ち出した「楽しくなければテレビじゃない」のスローガンに基づき、高視聴率を記録する番組をいくつも生み出しました。
そうした番組のなかでテーマ曲に使われたのがシティ・ポップや、ナイアガラ周辺のミュージシャンが手掛けた作品だったのです。
「オレたちひょうきん族」のエンディング曲はすべてシティ・ポップ
1981年、「オレたちひょうきん族」がスタート。
番組プロデューサーだった横澤彪は、みずから「ざんげの神さま」の隣に立つ神父役で出演しました。
「オレたちひょうきん族」は爆発的な人気番組となり、8年放送が続きます。
その間に使われたエンディング曲は次のとおり。
- EPO「DOWN TOWN」「土曜の夜はパラダイス」「涙のクラウン」
- 山下達郎「パレード」「土曜日の恋人」
- 松任谷由実「土曜日は大キライ」「SATURDAY NIGHT ZOMBIES」「恋はNo-return」
ことごとく、シティ・ポップ系ミュージシャンによる作品です。
なかでも大事なのはEPO。
山下達郎と 松任谷由実も間違いなく、「オレたちひょうきん族」によって人気を押し上げられましたが、EPOは「オレたちひょうきん族」がなければマイナーなシンガー・ソングライターのままだったかもしれません。
EPOを売り込んだ「オレたちひょうきん族」
1980年5月、EPOは「DOWN TOWN」のカバーを発表します。
EPOはRCAが竹内まりやに続く女性シンガーとして売り出したものの、プロモーションがうまくいかず売り上げがいまひとつでした。
翌年、「オレたちひょうきん族」のスタッフから、RCAの宮田茂樹のもとへEPOの「DOWN TOWN」を番組テーマソングに使わせてほしいと連絡が来る。
晴れてEPOの「DOWN TOWN」は初代「ひょうきん族」のテーマソングとなります。
「ひょうきん族」がまたたく間に人気番組となったことで、EPOの曲も「土曜の夜はパラダイス」「涙のクラウン」と続けてテーマソングに使われました。
そうした縁で、EPOは佐藤エポ子の名前で番組内の「タケちゃんマンの歌」の作曲や、番組アイキャッチも担当。さらに、横澤彪が手掛けていた特番「THE MANZAI」でもEPOの曲がかかりました。
「ひょうきん族」以降、人気が高まったEPOは1983年、資生堂フェアネス春のキャンペーンソングとして「う・ふ・ふ・ふ」を書き上げ、売上約26万枚のヒットを飛ばします。
「笑っていいとも!」のテーマソングを伊藤銀次に依頼
1982年、「笑っていいとも!」がスタート。この番組のプロデュースも横澤彪です。
番組開始前、横澤彪はテーマ曲を伊藤銀次に依頼しました。
ここで、明確に横澤彪がナイアガラ周辺のミュージシャンに目をつけていたことがわかります。
新番組のテーマ曲なら、いずみたくや服部克久といった番組主題歌が得意な実績のある作曲家に依頼するのが妥当でしょう。
ところが横澤彪は、佐野元春や沢田研二の楽曲制作にかかわっているくらいでしか知られていなかった伊藤銀次に声をかけたわけです。
なぜ伊藤銀次を選んだのか。
1980年代初頭の横澤彪が目指していたのは「新しい感覚の番組」。
「新しい感覚」という点が、当時のシティポップと共通しています。
横澤彪のなかには、「新しい感覚のバラエティー」と「新しい感覚のポップス」をリンクさせるという戦略があったのではないないでしょうか。
「笑っていいとも!」も人気番組となり、いいとも青年隊の歌う「ウキウキWATCHING」はレコードの売り上げこそ芳しくなかったものの、32年にわたって番組のオープニングで歌われ続けます。
偶然の一致で、伊藤銀次が作詞を手掛けたシュガーベイブの「DOWN TOWN」の一節にも、「暗い気持さえ/すぐに晴れて/みんな うきうき」と「うきうき」が入っていました。
「ウキウキWATCHING」「DOWN TOWN」という2つの代表曲から、伊藤銀次の作品は「ウキウキミュージック」と形容されるようになります。
「ライオンのいただきます」に菊池ひみこの曲を使用
1984年、横澤彪は小堺一機をMCに起用した「ライオンのいただきます」をプロデュースします。
番組のオープニングに使われた曲はフュージョン系キーボーディスト・菊池ひみこの「Hollywood Illusion」。
フュージョンなら、もっとメジャーなカシオペアやTスクエアを使ったほうがわかりやすいのに、ここでも横澤彪はマイナーな音楽を選んでいます。
菊池ひみこの音楽は、知名度こそないもののポップでキャッチ―です。
伊藤銀次やEPOがそうだったように。
横澤彪は、「自分でポップだと思ったものを有名・無名にかかわらず番組で使う」方針を持っていたに違いありません。
「笑っていいとも!」に深夜ラジオのリスナーにしか知られていなかったタモリを起用したのも、タモリの存在をポップだと信じたからではないでしょうか。
「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!」でもシティ・ポップ路線を継承
1990年、「オレたちひょうきん族」が終了した1年後に土曜8時のあとを継いだ番組は、「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!」でした。
同番組のプロデューサーは横澤彪ではない(「ひょうきん族」のディレクターで横澤彪の弟子筋の佐藤義和だった)ものの、エンディングテーマで「ひょうきん族」路線が継承されます。
番組の初期エンディング曲は平松愛理「素敵なルネッサンス」。
「素敵なルネッサンス」は、平松愛理の元夫・清水信之が編曲を手掛けた作品です。
EPOの「DOWN TOWN」「土曜の夜はパラダイス」「涙のクラウン」の3曲とも清水信之による編曲なので、キレイなつながりが感じられます。
「やるならやらねば!」には、以降も次のようなシティ・ポップのニュアンスがある曲が使われます。
- ELLIS「千の夜と一つの朝」
- 児島未散「一歩ずつの季節」
横澤彪は、アングラ芸人だったタモリ、漫才ブームで注目されたビートたけし、明石家さんまを国民的人気タレントに仕立て上げただけでなく、シティ・ポップを「土曜の夜」のイメージに結び付けるという功績を残しました。
おわりに
今回は、シティ・ポップを世に送り出した3人の人物の話をしました。
彼らの功績をまとめると次のとおり。
- 牧村憲一:竹内まりやをスカウト、説得してデビューさせた
- 川原伸司:名盤「ロンバケ」を売る戦略を立てた
- 横澤彪:自身の制作した番組でシティ・ポップを広めた
彼らがいなければ、今日シティ・ポップの歴史はまったく別のものになっていたでしょう。